2014年11月29日土曜日

C-PL/偏光フィルターで試し撮り



先日購入したカメラと一緒に買ったC-PLで試し撮りに行ってきました。

午前中は雨が降ったので、あいにく川は濁っていますが、生簀的な所を探して一枚。

まずはフィルター無しで撮ります。



晴れていても角度によってはこれくらい反射してしまいます。

つづいて、同じ設定でフィルターを装着し撮影。



水面に映っていた雲まで消えています。

これは撮影時の大敵である曇り天候の日でもガッツリ撮れそう。

来年が楽しみ。早く解禁こないかな。

2014年11月26日水曜日

Cameras for fishing


釣行時の主力となるカメラがなかったのでミラーレスのFUJIFILM X-M1を購入。

1万出してC-PLフィルターも購入したのでバンバン良いのが撮れそう。

これで来年からは、普段→ミラーレス、雨天→防水カメラ、気合入ってる時は一眼レフの三段構えでいきます。

ただ、撮影の腕はないのでこれから勉強します。






2014年11月12日水曜日

回想録6

 本格的な暖かさを覚え新緑の色増す5月、地球温暖化の影響なのだろうか、昨今では気温が30度を超す日も珍しくは無い。そんな時期に富士山の麓を流れる桂川で釣りをしていると、暑さと視界に入る富士の残り雪とのコントラストになにか不可思議さを感じずには居られない。とはいえ、そんな自然の変調に、川に棲む魚と釣り人は成るだけ順応しなければいけない。その様は慌ただしさも相まって意外な結果をもたらす事もある。

2008年5月山梨本流

朝靄のなか、川に着くと前日のまとまった雨で程よく増水していた。しかも昨日は暑いくらいに気温が上がり暖かい雨となったこともあり、さぞかし魚の活性が上がったものと想像できた。早速竿を伸ばして目の前の流れ込みを探ってみると、ここぞというスジで尺前後の魚がテンポ良く釣れた。しかも、どの魚もアタリは明確で前のめりな位置で喰ってきた。楽しい釣りができそうだ。

日差しが私の肌をジリジリと焦すのを感じ、今日も気温が上がりそうな予感を感じた。ともあれ、あいかわらず軽快な釣りを続けていたのだが、とある落ち込みのポイントに差し掛かった時に今までのようなアタリがなくなった。少し大きい魚が居るのかなと思い、粘ってみることにして竿を振り直す。すっかり見上げる位置にまで昇った太陽が水面を照らし、反射光に目印を見失いそうになる苛立ちを感じながら流していると不意にアタリがでた。はっきりとしたアタリだったこともあり反射的に合わせたが、掛からず仕掛けは空を舞う。何かが居るということは分った。しかし、その何かは同じ方法では二度と反応しかなった。どうやらそんなに甘くはない相手のようだ。

そこで、少し機転を利かして、盛期に流すような攻め方で、落ち込み直下から重めのオモリを生かし一気に沈め、落ち込み方向から先ほどのタナを探ってみた。大きめの底石がいくつかあるのか、着き場を探るために幾度となく竿を振る必要があったが、良い感じに流れたとき派手なアタリがでた。予想していたよりも少し上流でアタリが出たこともあって若干合わせが遅れたが、しっかり喰っているようなアタリだった事もあり目一杯合わせる。

気持ち良いくらい竿が曲がり、その反発の重みが大物だということを物語っていた。水面下深くでは魚が激しくローリングを繰り返し、目印がぐいぐい引き込まれていく。このまま潜られて落ち込みの白泡方向に潜られると面倒だから少し後ろに下がり、魚が暴れてることに構わず竿を絞り込んでいく。それからは根競べだった。時期的に早かった事もありパワーが十分とはいえない竿や糸だったので正直獲れるか五分五分。要は勝負を急がないことだろう。

幸いにも潜られる事もなく、次第に浮いてきた魚はこの時期にしては大きすぎるほどのサイズ。意外な釣りに私は嬉しくなり、魚を寄せながら光よりも早く近づき稲妻の如くタモで掬った。見ると均整のとれた体躯の大ヤマメで、この時期にしては出来すぎた釣りに満足した。







2014年11月10日月曜日

回想録4


釣り人の中には、大物を釣る時の予感を感じとる人がいる。早朝、家を出る時に空気の匂いで分る人とか、川面の雰囲気などを見て感じるとか。私にはそういった予感じみたものを感じ取る才能はない。あるのは状況と選択だけだ。
 
 2005年9月 山梨本流
 
川に着いたのは明るくなり始めた頃で、丁度良い時間だった。水況はといえば、3日程前にまとまった雨が降ったようで、丁度良い程度に水が引いていた。前日には釣友が良い釣りをしたようだ。今日はどうだろうと思いながら河原に立つ。しかし、いざ流してみると本命はどこへ、釣れてくるのはハヤばかり。いろいろ試してみたが、流れ込みでは全く反応がなく、かけ上がり付近でハヤに遊ばれるのを繰り返すだけだった。
 
この日は他にも探ってみたいポイントあって、踏ん切りをつけるタイミングを計りながら竿を振る。すると、あれだけ散々流したスジで8寸くらいのヤマメが釣れた。なにかが変化したのか、魚が着き場所を変えたのか解らないが、それを機にあれだけ煩かったハヤが反応を止めた。下手をすれば見切りをつけるタイミングになりかねないが、私は好機だと判断したのだ。そして、アタリが無くなったかけ上がり付近を重点的に流す。
 
1時間ほど流しただろうか、やや吹かせながら流していた糸がもたつく様な仕草を見せたかと思うと、極小さな『コッ・・コッ・・』というアタリ。大物にしかできないアタリだ・・・・満を持して思いっきり合わせる。私が加えた力は倍返しのように自身に返って来て、同時に竿を満月にする。割れんばかりに曲がった竿に魚はローリングをしてさらに負荷を加えていく。この場所は流れ出し以降の下流には着いていくのは難しいポイントだったので、目一杯竿を溜めると竿がバウンドをして暴れだした。強烈である。この瞬間が釣り人の至福の瞬間。

そして魚は自分の威厳を誇示するかのように真上に飛び、水中でまた激しくローリングを繰り返した。しばらくして、ローリングが止み、巻き付いた糸が解けきった頃、魚がおとなしくなっていたので少し手前に煽ってみる。しかし、どうにも重い。まさか糸が絡んだか。予感は的中し、一度浮かせた魚体にはエラか胸鰭付近に糸が巻き付いているのが見てとれた。大物の体は硬い。糸の消耗が心配だ。

ここからは強気なやり取りは消え去り、大きな流れ込みの淵を引きずり回される。しかし、あまり時間を掛けすぎると糸が磨耗しきって切れかねない。そう勝負どころを探っていた頃、魚が手前の巻き返しにゆっくり泳いできた。ここぞとばかりに竿を立てて浮かせる。そして、こちらに向かってくる流れを利用して一気にタモに押し込んだ。
 
これ以上のやり取りのプロセスはなく、運も味方につけた結果だった。なぜならば、タモに入れた後、糸を掴むとあっさり切れてしまったほど消耗していたからだ。そして、釣れてくれた小パーが薄っすら残る本流ヤマメに見惚れた。





回想録3

「大物を釣るコツは何ですか?」とたまに聞かれる。そんな時は当たり前の言葉だが「諦めないことですね」と答える。しかし、この「諦めない」ということが意外と一番難しい。やはり、なかなか掛からない魚だから思うような釣りにならないと雑になってしまう。この状態を私は『なんか釣れろ状態』と呼んでいる。私も集中力がきれてしまうと時として雑になり、なんか釣れろ状態に突入してしまう時がある。この状態に入ってしまって釣れたためしがない。そんな時は、一度竿を置いてイメージをする。・・・仕掛けをながし、ここでこうアタリがでる・・川面を見ながらイメージすると意外とすんなりモチベーションが戻る。大物釣りは「今日はダメだな」と感じてからが勝負だ。

2004年5月山梨本流
その日は早朝から全く奮わない釣りだった。大物が居そうな大場所でさえ小ヤマメのアタリしか出ず、区間によってはアタリすら出ないような状態だった。日は完全に昇り、私の頭上に達しようとしている。「今日はダメなのかな?」とつぶやいだが、大物が釣れるこの激戦区ではもうひとひねりが必要なのは分っていた。
そこで選んだポイントが波打つような荒瀬が長くつづく場所。底石がいくつか点在してはいるが、とても魚が着いているとは想像し難いようなポイントである。そしていざ流していくと、どうにも流れの押しが強くオモリの調整にやや苦労する。その最中に不意にアタリが出た。

「居たな、見つけた」

速い流れの一瞬のアタリだったので敢えて合わせず、次の一投に勝負をかける。そして目印がアタリの出た辺りに差し掛かった時に少しだけ仕掛けを送り込む。すると『分っていないと分らないようなアタリ』がでた。すかさず合わせをいれる。ここでいう『すかさず』とは、ひとの反射神経の限界は0.2秒と言われる事に挑むつもりで合わせた『すかさず』だった。
ある程度、掛けてからのやり取りを考慮しての立ち位置だったのだが、掛けた魚はビックリローリングをせず、まるで分っていたかの様に頭を下流に向けて走り出した。元竿を絞って溜めに入るが、押しの強い流れだったでの止めることが出来ず、溜めながら走らされることを強いられた。しかし、しっかり絞り込んでいたので、走ることが困難だと感じた魚はローリングをし始めた。「思う壺」と言いたいところだったのだが、このポイントは手前の流れが一番きつい。つまり、竿を返して手前に寄せて主導権を握ることが難しい流れだ。仕方なく上竿のまま序々に下ってついていき、幸い川原の広い所だったので後ろに下がって寄せに入る。流れの芯を通す時は半端ないプレッシャーを感じだが、上手くいったようだ。

小さな流れの横に寄せて近づいていくと、銀鱗まぶしいグラマーな体躯のヤマメが横たわっていた。



回想録2


2003年7月奥多摩湖ノボリアマゴ
 
谷の深い渓谷で、まだ明るくはない朝に大物を掛けた。その魚は掛けるやいなや前日の雨で増水したガンガンの流れを味方に下っていく。私も負けずと岩場を這いながら着いて行くが、下流に向けられた竿は次第に伸されていく。「くぅ・・」と私が唸った次の瞬間に0.8号の糸は空を舞っていた。
 
正直、嘗めていたのかもしれない。本流などの広い釣り場とは違い、険しいV字渓谷を成しているこの川では魚に対して主導権はおろか一瞬の迷いが勝負を決するのだという事を知らされた。
 
気を取り直し、ポイントを変える。しかし、ぶっつけからの深い流れ込みを攻めるが一向にアタリはでない。
 
「まさかガンガンの流れ込み?」
 
その流れ込みは増水のため怒涛の流れになっていて、6Bのオモリを付けて流すが一瞬で流されてしまうような流れだ。まさかこんな居づらい場所に居るのだろうかと思いもしたが、自分の閃きを信じオモリ6Bを二つ追加して流す。当然、重すぎるオモリは操作を間違えると根掛かりをおこす。何度か根掛かりを起こしながら底石と折り合いをつける工夫をして流すと何かが水面下でギラギラっと光った。アタリだという確信を得る前に私は思いっきり合わせていた。竿先が上下に踊っているのに呼応するように水面下では激しく魚が暴れているのを見て私は確信を持つ。

怒涛の流れを下っていく魚に一瞬圧倒される。しかし、先ほどの失敗を思い起こし、行かせまいと一気に竿を絞りあげる。糸の悲鳴ともとれる唸りをあげたように感じたが、魚も流れ出し手前に悲鳴をあげる様にローリングしていた。そこからは根競べが続いたが、次第に魚は観念したかの様におとなしくなる。安心した私は、手前のヨレに寄せるために竿を下竿にしていた。しかしこれが失敗だった。事前のシュミレーションでは崖が背面2mくらいまで迫っていて、竿を返す余裕はないとわかっていたのにも関わらず不意に下竿にしていた。完全な悪手である。中途半端な下竿は溜めの緩みを生み、それを見逃さなかった魚はあざ笑うかの様に下流のガンガンの流れに向かって下っていく。今更、上竿に返す余裕などなく、下竿のまま耐えながら流れ出しの深みをへつりながら付いていく。
 
ここからはやり取りのテクニック云々ではない。諦めない気持ちだけが重要だった。ゼイゼイと息が切れそうになりながら、半分は流されていたのかもしれない。「無理だ・・」と思った矢先に魚は岩の裏で横たわっていた。タモで掬うまでは信じられなかったが、まるで待っていてくれたの如くおとなしく私のタモの中へ吸い込まれていった、、、、。
 

雄のノボリアマゴ



回想録


本流釣りの大物狙いにおけるセオリーとは、大場所での粘りだろうか。しかし、このスタイルを貫き通して報われるということは少ない。殆どの釣りが釣果無しということの方が多いかもしれない。だから、いつ動き出すか知り得ない大物と対峙する場合にはある程度の覚悟がいる。
 
7月に入った本流の大淵に早朝立つ。今日は朝から蒸し暑い。この時期のこんな日には大物が動き出すだろうと信じて大淵の攻略に手をつけ始める。しかし、今日の雰囲気とは裏腹に何の魚信もない。仕掛けを工夫していろいろ試すが、何の手がかりも得られないまま時間が過ぎていく。と、何の気なしに下流に目をやると、流れの無い所で魚がドーン!と跳ねた。居るな・・・でも違うな。そこで私が取った作戦は・・・寝ることだった。ダメな時はダメ。寝て時間を流そうと。
 
初夏の川原での昼寝はとても気持ちよく、どうやら寝すぎたようだ。目が覚めると目の前に釣り人が熱心に竿を振っている。
仕方ないので、もうひと寝・・・。
 
目が覚めると、先ほど居た釣り人の姿はなく、空が赤み始めている。あぁ寝すぎか・・。しかし、タイミングはジャストだったようだ。仕掛けを用意して流すと一発だった。目印が一気に消しこむようなアタリ。合わせた後に竿が綺麗な満月を描く。釣り人の最高の瞬間だ。獲り込むまでに魚は3回跳んだ。魚はヤル気満々だったが、一歩も引かない私もヤル気満々だ。そして、私の気合が少し上回り、魚にタモに入っていただいた。

魚は少し鼻が曲がり始めた大ヤマメだった。




2014年11月9日日曜日

練習用テスト


 渓流や本流域で釣り人に淘汰されずに残った居着きヤマメを狙う場合、気を付けているのはセオリーに固執しない事だろうか。そのヤマメ釣りにおけるセオリーとは、概ねヤマメの習性を公約数的に掬い上げ、釣りを効率的にさせるものである。これは釣り人個人が意識的に合理的な釣り方をする場合ではなく釣り人総体として共有するもので、無意識レベルで持ち合わせるものもあるかと思う。そして、それらセオリーの網からすり抜ける魚だけが大物にまで生き残る可能性が高い。ここでよく間違えられるのが頭が良く学習能力が高いヤマメが残るという考え。(釣りという遊びの表現方法の例として擬人的に使うものは解りますが)生態的には『群選択の誤り』のようなものだと私は思っている。つまり、魚が釣り人の針から逃れて生き残っているのは、釣られないために頭を使って学習しているというのは誤りで、『釣り人に釣られなかった結果』であり、それらは魚固体が生き残るために意識的或いは無意識的に選んでいるのではなく、そういう性質なのだということ。

 ならば淘汰されずに残った居着きの大物を狙う場合に重要な事はなんだろう。
簡単にいえば、単純一遍通りの攻め方をしない事だろうか。できるだけ引き出しを多く用意し、思いついたことはなんでも試してみるに限る。そうする事で釣られずに残った居着きの魚にもいくつかのパターンの可能性が見えてくる。これとて絶対ではないが、このパターン的なものをできるだけ多く集めるのが鍵だと思う。



2006年8月山梨本流

 お盆を少し過ぎた頃、魚達は産卵に向けて一気に動き出す。それを見越し、シーズンで私が一番気合の入る時期でもある。
 この年は例年に比べて少しばかり涼しい夏だった。さりとて盆地というだけあって暑いのには変わりないが、極端に暑さに弱い私には有難い夏でもあった。ちなみに私は紫外線にも滅法弱く、しっかりケアをしないと腫れて酷いことになる。だから夏の紫外線の酷そうな日には、朝は普通に釣りをするが、日が高くなって日差しが強くなるとできるだけ日陰になるようなポイントを選んで釣りをせざる得ない。

 そういう事情もあって、尺物が2本でた早朝のポイントを見切り、日差しが強くなる前に目的の場所まで移動する。移動している最中にも岩場を歩いていることもあって容赦なく日差しを浴び、全身の毛穴から汗が吹き出てくる。すると、ちょっとした岩場を降りるたびに顔に滴っていた汗が眼鏡を濡らす。そのたびに眼鏡を外しグラスを拭いた。

 ポイントに着くと、この夏の雨が少ないこともあってかなりの渇水状態で、一見あまり期待の出来ないような渓相だ。しかし、産卵に向けて動き出す魚も居るだろうと期待し竿を伸ばす。そして手始めに流れ込みから掛け上がりへと攻めてみるが、やはりというか全く生命反応がない。簡単には釣れないということは分っている。ということで対岸際にできた窪みのエグレを探ると尺くらいのニジマスが釣れた。少し攻略のピントがズレているのを感じ、手前の石周りや開きを汲まなく探るが反応はない。ここで、ポイントを攻略する際に積み上げていくプロセスが霧靄かかって手がかりを見失いそうになる。

 そんな集中力が散漫になりそうな自分を感じながら、まさかとは思うが開きから下流のかなり浅い流れだろうかと閃きのようなものが湧き出てきた。そのポイントは次の流れ込みの手前3メートルくらいの所にあるちょっとした受けとなっていた。けれども深さは50cmほどしかなく川底も砂地となっている為、一見着いているようには思えない。が、ここは閃きを信じて試したいという事で流してみる。

 流し始めて少しすると、小さいがはっきりとしたアタリが出る。「掛かるアタリ」と思い、すかさず合わせるが乗らない。ならばと若干仕掛けを止め気味に流すように工夫すると、次のアタリはより大胆かつ明確なアタリとなって返ってきた。わかっていたのでアワセは極めて早く、溜めるまでの動作は無駄が無く一瞬で完了する。とはいえここは魚を止めて取り込みまで持ち込めるような場所ではなかったので、この時の溜めは下流に立ち居置を移す猶予を作るためのものだ。そうして魚の動きを確認しながら下流の流れ込みに向かい、竿を立てて仕掛けが流れ込み付近の岩に擦らないように気をつける。ここまで来たら煙草でも吸ってしまいそうなくらいの余裕を持て余し、やり取りを十分に楽しんだ後、観念した魚をそっとタモに入れた。