渓流や本流域で釣り人に淘汰されずに残った居着きヤマメを狙う場合、気を付けているのはセオリーに固執しない事だろうか。そのヤマメ釣りにおけるセオリーとは、概ねヤマメの習性を公約数的に掬い上げ、釣りを効率的にさせるものである。これは釣り人個人が意識的に合理的な釣り方をする場合ではなく釣り人総体として共有するもので、無意識レベルで持ち合わせるものもあるかと思う。そして、それらセオリーの網からすり抜ける魚だけが大物にまで生き残る可能性が高い。ここでよく間違えられるのが頭が良く学習能力が高いヤマメが残るという考え。(釣りという遊びの表現方法の例として擬人的に使うものは解りますが)生態的には『群選択の誤り』のようなものだと私は思っている。つまり、魚が釣り人の針から逃れて生き残っているのは、釣られないために頭を使って学習しているというのは誤りで、『釣り人に釣られなかった結果』であり、それらは魚固体が生き残るために意識的或いは無意識的に選んでいるのではなく、そういう性質なのだということ。
ならば淘汰されずに残った居着きの大物を狙う場合に重要な事はなんだろう。
簡単にいえば、単純一遍通りの攻め方をしない事だろうか。できるだけ引き出しを多く用意し、思いついたことはなんでも試してみるに限る。そうする事で釣られずに残った居着きの魚にもいくつかのパターンの可能性が見えてくる。これとて絶対ではないが、このパターン的なものをできるだけ多く集めるのが鍵だと思う。
2006年8月山梨本流
お盆を少し過ぎた頃、魚達は産卵に向けて一気に動き出す。それを見越し、シーズンで私が一番気合の入る時期でもある。
この年は例年に比べて少しばかり涼しい夏だった。さりとて盆地というだけあって暑いのには変わりないが、極端に暑さに弱い私には有難い夏でもあった。ちなみに私は紫外線にも滅法弱く、しっかりケアをしないと腫れて酷いことになる。だから夏の紫外線の酷そうな日には、朝は普通に釣りをするが、日が高くなって日差しが強くなるとできるだけ日陰になるようなポイントを選んで釣りをせざる得ない。
そういう事情もあって、尺物が2本でた早朝のポイントを見切り、日差しが強くなる前に目的の場所まで移動する。移動している最中にも岩場を歩いていることもあって容赦なく日差しを浴び、全身の毛穴から汗が吹き出てくる。すると、ちょっとした岩場を降りるたびに顔に滴っていた汗が眼鏡を濡らす。そのたびに眼鏡を外しグラスを拭いた。
ポイントに着くと、この夏の雨が少ないこともあってかなりの渇水状態で、一見あまり期待の出来ないような渓相だ。しかし、産卵に向けて動き出す魚も居るだろうと期待し竿を伸ばす。そして手始めに流れ込みから掛け上がりへと攻めてみるが、やはりというか全く生命反応がない。簡単には釣れないということは分っている。ということで対岸際にできた窪みのエグレを探ると尺くらいのニジマスが釣れた。少し攻略のピントがズレているのを感じ、手前の石周りや開きを汲まなく探るが反応はない。ここで、ポイントを攻略する際に積み上げていくプロセスが霧靄かかって手がかりを見失いそうになる。
そんな集中力が散漫になりそうな自分を感じながら、まさかとは思うが開きから下流のかなり浅い流れだろうかと閃きのようなものが湧き出てきた。そのポイントは次の流れ込みの手前3メートルくらいの所にあるちょっとした受けとなっていた。けれども深さは50cmほどしかなく川底も砂地となっている為、一見着いているようには思えない。が、ここは閃きを信じて試したいという事で流してみる。
流し始めて少しすると、小さいがはっきりとしたアタリが出る。「掛かるアタリ」と思い、すかさず合わせるが乗らない。ならばと若干仕掛けを止め気味に流すように工夫すると、次のアタリはより大胆かつ明確なアタリとなって返ってきた。わかっていたのでアワセは極めて早く、溜めるまでの動作は無駄が無く一瞬で完了する。とはいえここは魚を止めて取り込みまで持ち込めるような場所ではなかったので、この時の溜めは下流に立ち居置を移す猶予を作るためのものだ。そうして魚の動きを確認しながら下流の流れ込みに向かい、竿を立てて仕掛けが流れ込み付近の岩に擦らないように気をつける。ここまで来たら煙草でも吸ってしまいそうなくらいの余裕を持て余し、やり取りを十分に楽しんだ後、観念した魚をそっとタモに入れた。